東京都美術館にて、2026年1月8日(木)まで、上野アーティストプロジェクト2025「刺繍―針がすくいだす世界」が開催されています。
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会場入口

「上野アーティストプロジェクト」は、公募展の聖地・東京都美術館の歴史を受け継ぎ、未来へつなぐために2017年に始まったシリーズです。第9回となる今回は「刺繍」をテーマに、布に針と糸を通して生まれる多彩な造形と表現に光を当てます。会場には、大正末から現在までの国内5名のつくり手による100点を超える刺繍作品が並び、針と糸による造形の豊かな広がりを体感することができます。

伝統と日常が交差する―平野利太郎の刺繍
平野利太郎(1904〜1994)は、刺繍職人の家に生まれ、伝統的な刺繍技法を修得しながらも、日常の中の小さなモチーフを題材にし、刺繍にしかできない新たな表現を切り拓いた作家です。

《花と魚菜》は、2メートルを超える大作で、伝統的な日本刺繍の技術を基盤にしつつも、画面構成には近代絵画のような大胆さが感じられます。
《サボテン》では、植物の有機的なフォルムが力強い糸の運びで表現されており、刺繍が持つ「立体感」と「質感」の可能性を追求した姿勢が見て取れます。
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(左から)平野利太郎《花と魚菜》 1953年、《サボテン》 1955年 いずれも町田市立博物館蔵

《芥子 小屏風(二曲一隻)》では、繊細な糸のグラデーションが光を孕み、見る角度によって異なる表情を見せます。
職人としての確かな技術と、芸術家としての瑞々しい感性が融合した平野の世界は、刺繍という枠を超えた魅力を放っています。
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平野利太郎《芥子小屏風(二曲一隻)》 1956年 個人蔵

尾上雅野自由でダイナミックな「絵画」
続いて西洋刺繍の知識を土台に、羊毛の糸で大胆に絵画的な刺繍を生み出した尾上雅野(1921〜2002)の世界が広がります。
尾上の作品の大きな特徴は、下絵無しにダイナミックに刺し描く「フリーステッチ(絵画刺繍)」と呼ばれる手法です。これは、「毛糸で絵が描けないか」と思いついたことがきっかけで生まれ、羊毛100%の毛糸を撚らずに、目の粗い麻地に刺す独自のスタイルです。

会場では、一見油絵のように見える大作が並びます。定型のステッチにとらわれず、絵の具を載せるように糸を刺していくことで、画面全体から強いエネルギーが感じられます。
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(左から)尾上雅野《バラのアーチ》 1969年、《草原に遊ぶ》 1977年 いずれも公益財団法人日本手芸普及協会蔵

猫やキツネ、ダチョウなど動物たちが登場する作品では、その毛並みや仕草が、方向の異なるステッチで生き生きと表され、毛糸の柔らかな質感が、いきものらしい温かさを生み出しています。
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尾上雅野《クローバー畑の白いネコ達》 制作年不詳 公益財団法人日本手芸普及協会蔵

さらに、会場の一角には、ぬいぐるみ作品も並びます。尾上独自の色彩とステッチがほどこされたぬいぐるみは、かわいらしさの中に、テクスチャーの面白さや、布と毛糸の組み合わせの妙が宿っています。
日本手芸普及協会の会長も務め、後進の育成にも尽力した尾上ですが、その作品からは、つくることの純粋な喜びと、既成概念にとらわれない自由な精神が伝わってきます。
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尾上雅野によるぬいぐるみ作品

岡田美佳記憶の中の食卓と風景
岡田美佳(1969~)の作品は、鮮やかな色彩と緻密な描写で、見る人の記憶を刺激します。会話によるコミュニケーションに困難さを抱える岡田にとって、刺繍は自身と世界をつなぐ重要な言語です。

会場には、代表的なモチーフである「食卓」の作品がいくつも並びます。大きなダイニングテーブルを俯瞰するように描いた作品では、洋風から和風まで多種多様な料理、皿やグラス、テーブルクロスの柄が、自由なステッチで画面いっぱいに広がっています。さまざまな素材を用いて、グラスの透明感やソースのつや、金属の光沢なども細やかに表現されているのが見どころです。
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展示風景

風景も重要なテーマです。
奥多摩などの自然の中で過ごした時間がもとになった作品では、重なり合う木々の葉や、林道に落ちる影、水面の反射が、糸の太さや方向、色のわずかな違いによって緻密に表され、自然の中で過ごした記憶が、糸の重なりによって美しく再構成されています。
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展示風景

動物を描いた作品では、生きもののふわりとした羽毛や体温が、糸の質感に置き換えられ、刺繍ならではの温もりが感じられます。
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岡田美佳《シマリスの子》 1992年(1996年) 個人蔵、岡田美佳《セレベスコノハズク》 1996年 作家蔵

下絵を描かず、迷いなく針を進めるという岡田の制作スタイルからは、彼女の内側にあるイメージの強固さと、世界に対する鋭敏な観察眼がうかがえます。

刺すことで生まれるかたち―伏木庸平の現在進行形
現代作家である伏木庸平(1985~)の展示空間は、静謐でありながら異質な空気が漂います。伏木にとって針を刺す行為は、何かをつくることをめざすものではなく、自分の奥底に流れる時間や感覚を確かめるための日々のいとなみです。その象徴とも言えるのが、2011年から現在に至るまで刺し続けられている《オク》です。
会場では、布や紙などを縫い重ねた大きなかたまりとして展示室中央に吊られ、増殖と分裂を繰り返しながら変容し続ける巨大な生命体のようにも見えます。
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伏木庸平《オク》 2011年– 作家蔵

《こもんべべ》(2023–2024年)は、生まれたばかりの子どものまなざしを受け止めながら刺した作品です。ほかにも臓器や身体の一部を思わせるフォルムの作品が並び、鑑賞者の身体感覚に訴えかけます。
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伏木庸平《左半身の肋骨》 2018年–2024年 作家蔵

《透子》には、通常あるはずの、布などの支持体が存在しません。 刺すという日々の営みの中で発生した糸くずの山に針をくぐらせ、手ごたえの無い状態でひたすら刺し続けることで出現したかたちです。
伏木は、慣れを避けるためにあえてビニールなどの異質な素材を差し込み、常に「違和感」を感じながら刺すといいます。そうした行為は、自己の内面と向き合い、そこに流れる時間を物理的に定着させる試みのようでもあります。
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展示風景

望月真理ー布に新たな命を吹き込む、再生と祈りの「カンタ」
望月真理(1926~2023)は、ベンガル地方の女性たちの間で古布再生や祈りの思いから生まれ継承されてきた「カンタ」と呼ばれる針仕事に深く共鳴し、独自の創作活動を展開しました。
彼女の作品は、使い古された布を重ね合わせ、一針一針刺し子を施すことで、布を補強し、新たな命を与える営みです。
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展示風景

望月の手仕事は、芸術作品として鑑賞されるだけでなく、生活の中で使われることによってその輝きを増します。
法被やコートといった身にまとうものや、ランプシェードといった生活用品など、展示品からは日々の暮らしを大切にする作家の姿勢が伝わってきます。
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展示風景

《親子四代の思い出》は、母の大島紬の着物の布を使い、孫が小さい時に描いたイラストを下絵にしてつくり上げました。望月の手にかかれば、古びた布が愛おしい宝物へと生まれ変わります。
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(左から)望月真理《親子四代の思い出》 2004年、《里芋の葉》 2004年、《釈迦の教え》 2002年 いずれも個人蔵

最晩年まで車椅子の上で針を動かし続けた望月の作品は、生きることとつくることが分かち難く結びついていることを伝えてくれます。

同時開催:「刺繍がうまれるとき―東京都コレクションにみる日本近現代の糸と針と布による造形」
本展では、ギャラリーBにて「刺繍がうまれるとき―東京都コレクションにみる日本近現代の糸と針と布による造形」も同時開催されています。ここでは4つの章を通じて、刺繍が果たしてきた社会的・文化的な役割をたどります。

第1章「刺繍で飾る・彩る」では、大正期頃の袋物や、パリから送られた刺繍のポストカードなどが展示され、近代における装飾としての刺繍の華やかさを伝えます。なかでも岸本景春の刺繍手箱などは、工芸品としての刺繍の精緻さを極めた逸品です。
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岸本景春《暁鳴》 制作年不詳 東京都現代美術館蔵

第2章「刺繍を・学ぶ・習う」では、明治期以降の女子教育における刺繍の位置づけに焦点を当て、女子美術学校(現・女子美術大学)の学生たちによる緻密な《刺繍画》(女子美術大学工芸専攻蔵)や、様々な教育機関の授業で使われた練習布などが紹介されています。
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第2章展示風景

第3章「刺繍で守る・祈る」戦争に出征する兵士のために作られた《千人針》や、木綿を重ねて刺した防火性の高い《火消半纏》などが並びます。ここでは刺繍が単なる装飾ではなく、命を守るための「祈り」や「機能」として存在していたことがわかります。
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《刺子半纏》 江戸後期 東京都江戸東京博物館蔵

第4章「刺繍で想う・考える」では、現代作家と刺繍の関係を見つめます。ミッション・インヴィジブルや青山悟などの作品を通し、現代美術における表現手法としての刺繍の可能性に触れることができます。
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青山悟の作品

同時開催のコレクション展と行き来しながら、さまざまな思いが込められた刺繍を見ていくと、自分の生活の中にある「手を動かす行為」も、少し違って見えてくるかもしれません。 
針の往復がすくいあげてきた記憶や祈りの軌跡を、ぜひ会場でじっくりとたどってみてください。

【開催概要】
展覧会名: 上野アーティストプロジェクト2025「刺繍―針がすくいだす世界」(同時開催)「刺繍がうまれるとき―東京都コレクションにみる日本近現代の糸と針と布による造形」
会期: 2025年11月18日(火)~2026年1月8日(木)
会場: 東京都美術館 ギャラリーA・C(「刺繍―針がすくいだす世界」)、ギャラリーB(「刺繍がうまれるとき」)
開館時間: 9:30~17:30(金曜日は9:30~20:00) ※入室は閉室の30分前まで
休館日: 12月1日(月)、15日(月)、29日(月)~1月3日(土)
観覧料: 一般 800円 / 65歳以上 500円 / 学生・18歳以下 無料
※同時開催展は観覧無料