エコール・ド・パリの代表的画家として知られる、藤田ですが、彼が絵画制作と並行して、生涯にわたり数千点もの写真を撮り、また撮られていたことはあまり知られていません。
本展は、これまで具体的に検証される機会が少なかった画家と写真との深い関わりに光を当てる、21世紀に入って初めての試みです。
「描くこと、そして撮ること」、この2つの行為を行き来した藤田の「眼の軌跡」を追い、その魅力に迫る、注目の展覧会です。
本展は、これまで具体的に検証される機会が少なかった画家と写真との深い関わりに光を当てる、21世紀に入って初めての試みです。
「描くこと、そして撮ること」、この2つの行為を行き来した藤田の「眼の軌跡」を追い、その魅力に迫る、注目の展覧会です。
展示は、「絵画と写真につくられた画家」「写真がつくる絵画」「画家がつくる写真」という3つの視点から、藤田と写真の関係をひも解いていきます。
プロローグ「眼の時代」―フジタと写真との出会い
プロローグでは、藤田が生きた時代背景に光を当てます。

ベレニス・アボット《藤田嗣治、パリ、1927年》1927年 日本大学芸術学部
1886年に生まれた藤田が過ごした少年・青年期は、写真や映画といった映像文化に大きな変化があった時代でした。
日本でもアマチュア写真家が急増し、新聞に写真が掲載されるようになり、絵葉書も大量に流通し始めました。

ベレニス・アボット《藤田嗣治、パリ、1927年》1927年 日本大学芸術学部
1886年に生まれた藤田が過ごした少年・青年期は、写真や映画といった映像文化に大きな変化があった時代でした。
日本でもアマチュア写真家が急増し、新聞に写真が掲載されるようになり、絵葉書も大量に流通し始めました。
そうした時代背景のなかで成長した藤田は、パリに渡ってから自らも積極的に写真を撮り始めます。
当時のパリでは、マン・レイをはじめとするシュルレアリストたちが写真や映画を新たな表現手段として駆使しており、藤田も彼らとの交流を通じて創作の刺激を受けたと考えられています。藤田は、時の流れとともに忘れ去られる存在を留めおく写真の力に、強く惹きつけられていったのです。
当時のパリでは、マン・レイをはじめとするシュルレアリストたちが写真や映画を新たな表現手段として駆使しており、藤田も彼らとの交流を通じて創作の刺激を受けたと考えられています。藤田は、時の流れとともに忘れ去られる存在を留めおく写真の力に、強く惹きつけられていったのです。
第1章 「絵画と写真につくられた画家」―巧みなセルフブランディング戦略
第1章では、藤田の巧みなセルフブランディングに迫ります。
「藤田嗣治」と聞くと、多くの人が「丸メガネとか、おかっぱとか、髭とか、猫とか、そういうものを思い浮かべるのではないか」と本展担当の東京ステーションギャラリーの若山満大学芸員(以下、若山学芸員)は指摘します。
そして「そのイメージは一体誰が作ったのかというと、それは実は藤田自身だった」と語ります。
そして「そのイメージは一体誰が作ったのかというと、それは実は藤田自身だった」と語ります。

(左から)《ポール・モラン著『フジタ』》1928年 軽井沢安東美術館 ドラ・カルムス(マダム・ドラ)《猫を肩にのせる藤田嗣治》1927年 東京藝術大学
彼は時代の寵児として多くのメディアを賑わせましたが、その個性的な風貌を世に知らしめたのは、何度となく描かれた自画像や、繰り返し複製された自身のポートレート写真だったのです。
この章では、藤田が自分自身を描写した絵画と写真を通して、「見られたい自分」をつくり出し、セルフブランディングしていくプロセスを見ていきます。
こうした戦略は、名古屋市美術館所蔵の絵画《自画像》(1929年)にも表れています。
この作品では、日本の墨と硯を傍らに「日本人」であることを強調しつつ、背景のカンヴァスに西洋の女性を描くことで、エキゾチックな日本人でありながら西洋の画家でもあるという二重のアイデンティティを巧みに表現しています。
この作品では、日本の墨と硯を傍らに「日本人」であることを強調しつつ、背景のカンヴァスに西洋の女性を描くことで、エキゾチックな日本人でありながら西洋の画家でもあるという二重のアイデンティティを巧みに表現しています。
一方、軍国主義が台頭する日本に帰国した際には、日本刀を手にした和服姿で、日本人としてのアイデンティティを強く打ち出しています。
藤田のイメージ戦略は、彼が滞在する場所や時代の変化に応じて巧みにかたちを変えました。若山学芸員は、藤田のこうした姿勢について、人によってさまざまな感想があるかもしれないとしつつ、鑑賞者それぞれが「藤田ってどんな人なんだろうということに、思いを馳せていただきたい」と、この章の鑑賞のポイントを提示しています。
第2章 「写真がつくる絵画」―創造の源泉としての写真活用術
第2章では、藤田の創作の秘密が明かされます。
彼は絵画制作にあたり、撮影した写真を積極的に素材として活用していました。膨大な写真の中から、人の相貌や衣服の文様、建築などの要素を切り出し、カンヴァスの上で自在に再構成していったのです。ある写真に写っていた人物の顔だけを別の絵画の画面に転用したり、同じ顔を全く別の絵画に再利用したりすることもあったといいます。
会場では、絵画とその元になった写真が並べて展示されており、藤田の写真活用のプロセスを具体的にたどることができます。
こうした手法について、若山学芸員は、藤田にとって絵画とは「色と形の順列組み合わせ」であり、感性やひらめきだけでなく、極めて構成的に作品を制作していたことを示していると語っています。
彼がこのように絵画を築き上げていたことを知ることで、作品鑑賞の新たなおもしろさが見えてくるはずです。写真という素材を絵画として生まれ変わらせた藤田の「眼」を、ぜひ会場で追体験してみてください。
異文化へのまなざし―旅から生まれた作品
藤田の制作における写真の活用は、世界各地への旅と深く結びついています。
1931年に始まった南米への旅では、異文化に触れた感動を写真に記録しました。それらの写真から特徴的なポーズや衣装を抽出し、組み合わせて描かれた作品も展示されています。

2階展示風景 ©Hayato Wakabayashi
1931年に始まった南米への旅では、異文化に触れた感動を写真に記録しました。それらの写真から特徴的なポーズや衣装を抽出し、組み合わせて描かれた作品も展示されています。

2階展示風景 ©Hayato Wakabayashi
また、1936年に映画『現代日本』の撮影で秋田を訪れた際には、雪国の暮らしや風景を写真やスケッチで記録し、それをもとに壁画《秋田の行事》を完成させました。
会場では、秋田で藤田が撮影した写真とともに、《秋田の娘》(1937年)などの絵画が展示されています。
会場では、秋田で藤田が撮影した写真とともに、《秋田の娘》(1937年)などの絵画が展示されています。
「画家がつくる写真」―プロをも唸らせた写真の魅力
藤田は描く画家であると同時に、「撮る」アーティストでもありました。
第3章では、藤田が撮影した写真そのものの魅力に着目します。
本展では日本とフランスに現存する彼の膨大な写真資料の中から、過去最大級のボリュームでその珠玉のスナップショットが紹介されています。
本展では日本とフランスに現存する彼の膨大な写真資料の中から、過去最大級のボリュームでその珠玉のスナップショットが紹介されています。
東京ステーションギャラリーの赤レンガの壁を背景に、1930年代に世界を旅した際のモノクロ写真や、1950年代のヨーロッパを捉えた貴重なカラー写真が並びます。
これらの写真は、絵画制作のための記録というだけでなく、それ自体がひとつの作品として成立するほどのクオリティを持っています。
特に注目すべきは、1950年代から撮り始めたカラー写真です。
当時、カラーフィルムは普及し始めたばかりで、プロの写真家でさえその扱いに苦慮していました。
しかし藤田は、まるで絵具を操るように色の要素を画面の中で巧みに構成し、卓越した色彩感覚での写真家たちを唸らせるほどの見事な作品を生み出したのです。
写真家の木村伊兵衛によって見出されたこれらの写真は、当時の日本の写真界で大きな話題となり、高い評価を受けました。
しかし藤田は、まるで絵具を操るように色の要素を画面の中で巧みに構成し、卓越した色彩感覚での写真家たちを唸らせるほどの見事な作品を生み出したのです。
写真家の木村伊兵衛によって見出されたこれらの写真は、当時の日本の写真界で大きな話題となり、高い評価を受けました。

藤田嗣治《市街 バスの前の人々》1955年 東京藝術大学所蔵
写真はリバーサルフィルム(ポジフィルム)で撮影されており、藤田自身も紙にプリントするのではなく、スライド映写機で見ていたといいます。
会場では、スライド映写機でポジフィルムを鑑賞するコーナーが設けられ、照明を落とした空間で藤田が見たであろう光景を追体験するという、ユニークな鑑賞が楽しめます。
会場では、スライド映写機でポジフィルムを鑑賞するコーナーが設けられ、照明を落とした空間で藤田が見たであろう光景を追体験するという、ユニークな鑑賞が楽しめます。
エピローグ「眼の記憶/眼の追憶」―戦後の藤田と家族の肖像
最終章となるエピローグでは藤田の戦後の生活に焦点が当てられます。戦時中に戦争協力したと批判され、日本を去る決断をした藤田。ここでは、そんな彼の姿を記録した3人の写真家の作品が紹介されています。
アメリカ人であるフランク・シャーマンは、戦後の藤田に接触し、彼の生活を写真に記録しました。
一般的に戦後の藤田は緊張した日々を送っていたと想像されがちですが、シャーマンが撮影した京都旅行中の写真には、気心知れた仲間とリラックスして過ごす藤田の姿が捉えられています。
一般的に戦後の藤田は緊張した日々を送っていたと想像されがちですが、シャーマンが撮影した京都旅行中の写真には、気心知れた仲間とリラックスして過ごす藤田の姿が捉えられています。
毎日新聞社の阿部徹雄は、1950年代にパリのモンパルナスにアトリエを構えた藤田を訪ね、ポートレートを撮影しました。
カラー写真の撮影の際は、藤田は自ら進んで赤い帽子をかぶったといいます。阿部は、藤田がカラーフィルムの特性を理解したうえで、「カラー写真として映えるように自ら演出した」のだと回顧します。
また、画家・清川泰次の写真には、社会の荒波を乗り越え、ようやくパリで落ち着いた「1人の老人としての藤田」の穏やかな姿が写し出されています。
カラー写真の撮影の際は、藤田は自ら進んで赤い帽子をかぶったといいます。阿部は、藤田がカラーフィルムの特性を理解したうえで、「カラー写真として映えるように自ら演出した」のだと回顧します。
また、画家・清川泰次の写真には、社会の荒波を乗り越え、ようやくパリで落ち着いた「1人の老人としての藤田」の穏やかな姿が写し出されています。

(左から)清川泰次《 パリ、藤田嗣治のアトリエにて(モデルを描く藤田嗣治)》1954年、清川泰次《パリ、藤田嗣治のアトリエにて(イーゼルに向かう藤田嗣治)》1954年 いずれも世田谷美術館
《家族の肖像》(1954年)という絵画には、自身の顔とともに、背景に2つの「画中画」が描かれています。一つは父の肖像、もう一つは妻・君代の写真をもとにした肖像です。
陸軍軍医総監だった父と藤田は、パリ滞在をめぐって対立し、生涯で接した時間は非常に短く、妻と父を引き合わせる機会も多くはありませんでした。
若山学芸員は、そうした家族への思いが、この晩年の自画像に込められているのではないかと語っています。
知られざるフジタに出会う夏
「写真」をキーワードに藤田の芸術を再考する本展では、これまでにない角度から彼の素顔と創作の秘密に迫ります。
この機会に、画家として、そして一人の人間としての藤田の魅力を、あらためて見つめ直してみてはいかがでしょうか。

【開催概要】
展覧会名: 藤田嗣治 絵画と写真
会期: 2025年7月5日(土)~8月31日(日)
会場: 東京ステーションギャラリー(JR東京駅 丸の内北口改札前)
開館時間: 10:00~18:00(金曜日は20:00まで) ※入館は閉館30分前まで
休館日: 月曜日(ただし7/21、8/11、8/25は開館)、7/22(火)、8/12(火)
入館料: 一般1,500円、高校・大学生1,300円、中学生以下無料
公式ホームページ: https://www.ejrcf.or.jp/gallery/













