東京・南青山の根津美術館では、2025年7月6日(日)まで企画展「はじめての古美術鑑賞―写経と墨蹟―」が開催されています。
同館の人気シリーズ「はじめての古美術鑑賞」第6弾となる今回は、仏教の経典を書き写した「写経」と、禅僧の書である「墨蹟」に焦点を当てています。
展示される作品はすべて国宝や重要文化財という豪華なラインナップ。難しい知識がなくても、わかりやすい解説とともにその奥深い魅力を体感することができます。
奈良~鎌倉時代の写経の変遷をたどる
写経とは、仏典を書写したもので、日本での歴史は7世紀にまで遡ります。
奈良時代には国家事業として写経が盛んに行われ、選ばれた写経生たちによって謹厳で端正な書風の経巻が数多く制作されました。
奈良時代、長屋王の発願によって書写された《大般若経 巻第二百六十七(神亀経)》は、当時の写経生による謹厳な楷書が見どころです。「長麻紙」と呼ばれる特別に長い紙が使われている点が特徴で、何に書かれているかも鑑賞のポイントになっています。
《華厳経 巻第四十六(二月堂焼経)》は、現存する唯一の紺紙銀字経の中でも、火災にあいながらも巻首から巻末まで本紙が残る貴重な1巻で、紺色の紙に書かれた銀字の輝きは今も失われていません。
【重要文化財】《華厳経 巻第四十六(二月堂焼経)》日本・奈良時代 8世紀
平安時代に入ると、貴族の美意識を反映した壮麗な装飾経が制作されるようになります。
《無量義経・観普賢経》は、細かい金箔を散らして、色の異なる染紙を交互に継いだ華やかな装飾経で、温雅な和様の書と料紙が見事に調和しています。
《金光明最勝王経註釈 巻第二断簡(飯室切)》は、嵯峨天皇の写経に、弘法大師空海が注釈を加えたと江戸時代に鑑定され、断簡となった「切」としても珍重されました。
【重要文化財】《金光明最勝王経註釈 巻第二断簡(飯室切)》日本・平安時代 9世紀
【重要文化財】 《絵過去現在因果経 第四巻》 (画)慶忍・聖衆丸筆(写経)良盛筆 日本・鎌倉時代 建長6年(1254)
ほかにもわが国最古の『大般若経』の遺品や、高山寺を再興した明恵上人が20歳の時に書写した写経など、時代とともに変化する書風や装飾、そして写経に込められた祈りの心を、ぜひじっくりと味わってみてください。
個性豊かな墨蹟の世界を楽しむ
墨蹟は、主に鎌倉時代以降、禅僧が修行の証や弟子への励ましなどのために書いた書です。
写経の整然とした美しさとは対照的に、書き手の個性や人柄が色濃く表れた大胆な筆致が魅力です。
写経の整然とした美しさとは対照的に、書き手の個性や人柄が色濃く表れた大胆な筆致が魅力です。
《無学祖元墨蹟 附衣偈断簡》は、鎌倉の円覚寺を開いた無学祖元が、弟子に自らの教えを正しく受け継いだ証として法衣を授けたことを記した偈(宗教的な詩)です。
墨蹟は茶の湯の世界で重視され、今も床を飾る第一の掛物として珍重されています。展示ではそのイメージを再現した形で紹介されています。

墨蹟は茶の湯の世界で重視され、今も床を飾る第一の掛物として珍重されています。展示ではそのイメージを再現した形で紹介されています。

【重要文化財】 《無学祖元墨蹟 附衣偈断簡》日本・鎌倉時代 弘安3年(1280)
龍巌徳真(ろがんとくしん)の《龍巌徳真墨蹟 偈頌》は、濃墨で一字ずつ堂々と書かれた迫力ある作品。現存する龍巌の遺墨は本作を含め2点のみという貴重なものです。
(左)【重要文化財】 《龍巌徳真墨蹟 偈頌》中国・元時代 至順2年(1331)
中国・元時代の禅僧、月江正印(げっこうしょういん)は多くの修行僧が教えを求めた名僧。右は77歳、左は82歳という高齢で書かれたものですが、特に後者は堂々とした書きぶりに年齢を重ねた高僧の威厳が感じられます。


(左から)【重要文化財】《月江正印墨蹟 道号偈》中国・元時代 至正8年(1348)、【重要文化財】 《月江正印墨蹟 送別偈》中国・元時代 至正3年(1343)
重要文化財《一山一寧墨蹟 進道語》は、中国僧・一山一寧(いっさんいちねい)が弟子にさらに修行を励むようにと与えたもので、流れるような草書が見事です。一方で、大徳寺開山・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、大灯国師)の書は、笹の葉を思わせるような独特の筆致が特徴です。
このように、書かれた内容だけでなく、造形的な美しさや書き手の個性、相手との関係性などにも思いを巡らせながら鑑賞できるのも、墨蹟ならではの楽しみといえるでしょう。
このように、書かれた内容だけでなく、造形的な美しさや書き手の個性、相手との関係性などにも思いを巡らせながら鑑賞できるのも、墨蹟ならではの楽しみといえるでしょう。

(左から)【重要文化財】《宗峰妙超墨蹟 法語》日本・鎌倉時代 元亨2年(1322)、【重要文化財】《一山一寧墨蹟 進道語》日本・鎌倉時代 正和5年(1316)、【重要文化財】 《明極楚俊墨蹟 道号偈》日本・鎌倉時代 元徳2年(1330)
大津絵のつくられ方・たのしみ方
展示室2では、根津美術館が所蔵する大津絵コレクションが、初めてまとまって紹介されています。
江戸時代、東海道の大津周辺で土産物として親しまれた大津絵は、当初は仏画が中心でしたが、やがて美人画や若衆、さらに鬼や神仏をユーモラスに描いた世俗画が中心となります。
京都から伊勢神宮へ向かう参詣の様子を描いた《伊勢参宮道中図屏風》には、大津絵を売る店先や、絵を描いている職人、購入した大津絵を手に持つ旅人などが生き生きと描かれており、大津絵の制作と享受の様子を伝える現存最古の絵画資料とされています。


《伊勢参宮道中図屏風》日本・江戸時代 17~18世紀
鬼が念仏を唱えるというユーモラスな姿を描いた《鬼の念仏図》は、子どもの夜泣き除けや雷除けのお守りとしても用いられました。
根津美術館のコレクションの礎を築いた根津嘉一郎が、昭和4年(1929)の茶会でこの図を寄付の床に掛けて客を驚かせたという逸話は、大津絵が美術品として評価され、茶の湯の世界にも取り入れられたことを示しています。

展示室2「大津絵のつくられ方・たのしみ方」展示風景より、(左)《鬼の念仏》日本・江戸時代 18世紀

展示室2「大津絵のつくられ方・たのしみ方」展示風景より、(左)《鬼の念仏》日本・江戸時代 18世紀
ほかにも、複数の大津絵を屏風に貼り混ぜた《大津絵貼交屏風》や、《鷹匠》、《藤娘》 といった大津絵の人気画題も展示され、その多彩な魅力と鑑賞の歴史をたどることができます。

《大津絵貼交屏風》日本・江戸時代 18世紀

《大津絵貼交屏風》日本・江戸時代 18世紀
特別仕様の美術品収納箱
美術品の収納箱は無地のものが多いですが、中にはこだわりの装飾が施されたものがあります。
展示室5の「特別仕様の美術品収納箱」は、普段は展示される機会の少ない、美術品を収めるための箱に焦点を当てたユニークな展示です。
野々村仁清作の茶碗を収めるために作られた《色絵結文文茶碗 収納箱》は、贅沢な黒柿製で、蓋裏に茶葉を挽く坊主頭の人物の姿が小さく平蒔絵で描かれています。にっこり微笑む愛らしい姿は、見る者を笑顔にさせる遊び心が感じられます。


(左から)《色絵結文文茶碗》京都 野々村仁清作 日本・江戸時代 17世紀、《色絵結文文茶碗 収納箱》日本・江戸時代 19世紀
また、《信楽写茶碗 銘武蔵野 収納箱》は、蓋表に平蒔絵で大胆に満月と繊細な秋草が描かれ、内面は総銀地で月夜を演出するという、内に収まる茶碗の銘「武蔵野」にふさわしい意匠となっています。

(左から)《信楽写茶碗 銘 武蔵野》本阿弥光甫作 日本・江戸時代 17世紀、《信楽写茶碗 銘 武蔵野 収納箱》日本・江戸時代 17~18世紀

(左から)《信楽写茶碗 銘 武蔵野》本阿弥光甫作 日本・江戸時代 17世紀、《信楽写茶碗 銘 武蔵野 収納箱》日本・江戸時代 17~18世紀
空海筆《崔子玉座右銘断簡》の収納箱は、作者の伊東貞文が、空海が唐から持ち帰った経典を収めた国宝「宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱」(仁和寺蔵・未出品)をアレンジして制作したもので、元となった作品への深い理解がうかがえます。

(左から)【重要文化財】 《崔子玉座右銘断簡 空海筆》日本・平安時代 9世紀、《崔子玉座右銘断簡 収納箱》伊東貞文作 日本・明治時代 明治35年(1902)いずれも大師会蔵

(左から)【重要文化財】 《崔子玉座右銘断簡 空海筆》日本・平安時代 9世紀、《崔子玉座右銘断簡 収納箱》伊東貞文作 日本・明治時代 明治35年(1902)いずれも大師会蔵
さらに、茶碗の白に映える漆黒の内側に、金平蒔絵で流水と桜花を配した《志野茶碗 収納箱》(江戸時代 19世紀)や、蓋裏に八重桜の美しさを詠んだ和歌、表には咲き誇る八重桜があしらわれた《黒織部茶碗 収納箱》(江戸時代 19世紀)など、箱そのものが美術品ともいえる美しいデザインの逸品が楽しめます。
風待月の茶会
展示室6では、「風待月の茶会」と題して、蒸し暑さの中に涼風を待つ季節感あふれる茶道具30点が取り合わされています。
中国・元時代の《青磁透彫二階香炉》は、脚部に透かし彫りで蓮唐草があらわされ、見た目にも涼しげです。茶道具の取り合わせで室内に涼感をもたらし、夏の茶会を楽しむ工夫が感じられます。
この香炉は、茶人・小堀遠州が底が高い位置にあることから「二階香炉」と箱書きしたと伝えられています。
「風待月の茶会」展示風景より、(左)《青磁透彫二階香炉》龍泉窯 中国・元時代 14世紀
床に掛けられた《藤原兼輔像》は、三十六歌仙の一人・藤原兼輔の像に、夏の夜の琴の音を松風にたとえた和歌が添えられたもの。その詩情豊かな世界が、茶席に涼をもたらしています。
「風待月の茶会」展示風景
本展は、名品を通して写経と墨蹟の奥深い魅力に触れることができる貴重な機会です。整然とした写経の美、個性あふれる墨蹟の力、さらに大津絵のユーモア、美術品を彩る収納箱や季節感あふれる茶道具など、多彩な古美術の世界が広がっています。
この機会に時を超えて伝わる書の美、そして古美術の豊かな世界に触れみてはどうでしょうか。
この機会に時を超えて伝わる書の美、そして古美術の豊かな世界に触れみてはどうでしょうか。
※文中、所蔵先表記のない作品は根津美術館蔵
【開催概要】
展覧会名:企画展 はじめての古美術鑑賞―写経と墨蹟―
会期:2025年5月31日(土)~7月6日(日)
会場:根津美術館 展示室1(及び展示室2、3、5、6で同時開催展)
開館時間:午前10時~午後5時(最終入館 午後4時30分)
休館日:毎週月曜日
入館料:オンライン日時指定予約 一般 1300円、学生 1000円。当日券 一般 1400円、学生 1100円
公式ホームページ:https://www.nezu-muse.or.jp