国立西洋美術館初の大規模写本展「内藤コレクション 写本 —いとも優雅なる中世の小宇宙」が、東京・上野の国立西洋美術館にて、8月25日(日)まで開催中です。
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会場入口

写本とは
写本とは、印刷技術が発明される前のヨーロッパで、人の手で書き写された本のことです。テレビもインターネットもない時代、写本は中世ヨーロッパの人々の信仰を支え、知の伝達を担う主要な媒体でした。

写本は、羊や子牛などの動物の皮を薄く伸ばして加工した紙を用意することから始まります。さらに文字を一つひとつ手で書き写して作るため、完成するまでに膨大な時間と労力がかかる贅沢品でもありました。
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展示風景

内藤コレクションを中心に約150点を公開
内藤コレクションとは、筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授の内藤裕史による写本零葉(「リーフ」ともいう。元の本から切り離された1枚ずつの紙のこと)を中心とするコレクション。2015年度に国立西洋美術館へ一括寄贈され、その後も2020年にかけて新たに26点が所蔵品に加わっています。内藤氏は「世界に1点しかない美」としての写本零葉に魅力を感じて集め始めたといいます。

本展はこのコレクションを中心に、国内の大学図書館の所蔵品も若干数加えた約150点より構成され、聖書や詩編集、時祷書、聖歌集など中世に広く普及した写本の役割や装飾の特徴を見ていきます。
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展示風景

写本の装飾にも注目
写本には文字テキストだけでなく、さまざまな装飾が施されています。
文頭の飾り文字はイニシャルといい、美しいというだけでなく、テキストの重要なセクションの始まりの目印として置かれたり、詩編の節の区切りとして用いられました。物語の場面や人物などを描いたものは物語イニシャルといいます。1番綺麗なイニシャルは重要なポイントを目立たせるというような意味もありました。
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「4章:ミサのための写本」展示風景より

このイニシャル挿絵からは、この書物がどのように使用されていたかをうかがい知ることができます。
⑦ジョヴァンニ・ディ・アントニオ・ダ・ボローニャ彩飾《典礼用詩編集零葉》
ジョヴァンニ・ディ・アントニオ・ダ・ボローニャ彩飾《典礼用詩編集零葉》イタリア、ボローニャ 1425-50年 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

写本の装飾は、ほかにもテキスト周囲を縁取る枠装飾、ミニアチュールと呼ばれるさまざまな挿絵などがあります。ときには全ページ大の挿絵が描き入れられることも。 写本装飾は、本の中で守られていたことで、 壁画やタペストリーに比べて散逸や破損を免れて今も美しい状態を保っており、なかには書物としての実用の域を超えた一級の美術作品といえるような写本もあります。
①カマルドリ会士シモーネ彩飾 《典礼用詩編集零葉》
カマルドリ会士シモーネ彩飾 《典礼用詩編集零葉》イタリア、フィレンツェ 1380年頃 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション(⾧沼基金)国立西洋美術館蔵

左の《ミサ聖歌集零葉》はページ下部の余白に注目。餌をついばむ雌鶏とひよこが小さく描かれています。このように装飾には、さまざまな意匠が表されているので、細部までチェックしながら鑑賞すると思いがけない発見もありそうです。
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「4章:ミサのための写本」展示風景より

展示は写本の用途別に全9章構成。
1章:聖書
1章では、まず聖書に着目。
聖書は中世ヨーロッパにおける最も重要なテキストで、多数の写本が制作されました。内藤コレクションの聖書写本の中心となるのは、13世紀のイングランドおよびフランスで制作された作例です。
なかでもこの《聖書零葉》は、「創世記」冒頭を示す大きな物語イニシャルが特徴の内藤コレクションを代表する一点です。
②《聖書零葉》
《聖書零葉》イングランド 1225-35年頃 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

またフランスやイングランドにおいて初期の大学教育の現場で使用された写本由来の例も見られます。
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「1章:聖書」展示風景より

2章:詩編集
神の栄光を讃える150編の詩からなり、旧約聖書の一書を構成する 「詩編」 は、キリスト教徒の祈りの重要な要素でした。 この「詩編」のテキストに、聖歌や祈祷文などをあわせて収録したのが「詩編集」です。
13世紀から14世紀中頃にかけて、イングランドやフランス、南ネーデルラント(おおよそ現ベルギーに相当)などを中心に一般信徒が私的な礼拝に用いる祈祷書として人気を博しました。
⑤《詩編集零葉》
《詩編集零葉》南ネーデルラント、おそらくヘント 1250-60年頃 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

3章:聖務日課のための写本
教会や修道院などで聖職者が行うお祈りを典礼といいます。特に1日8回、決まった時間に行われる礼拝のことを聖務日課といい、その祈りで唱えられる全テキストをまとめて収録した書物が「聖務日課書」です。
基本的には礼拝の進行を担当する司祭によって使用されましたが、次第に一般信徒たちの間にも普及していきました。

これは、イタリア・フェラーラで世俗の信徒のために制作された華やかな作例で、ゴシックとルネサンス両方のエッセンスを見ることができます。当時のフェラーラは、ヨーロッパ各地から集まった気鋭の画家が活動した都市でした。
⑥フランチェスコ・ダ・コディゴーロ写字、ジョルジョ・ダレマーニャ彩飾《『レオネッロ・デステの聖務日課書』零葉》
フランチェスコ・ダ・コディゴーロ写字、ジョルジョ・ダレマーニャ彩飾《『レオネッロ・デステの聖務日課書』零葉》イタリア、フェラーラ 1441-48 年 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

装飾を見比べることで同じようなバックグラウンドを持った写本があるということもわかります。上の作品と装飾がとてもよく似た写本も展示されているので探してみてください。

聖務日課聖歌集や典礼用詩編集は、集団で見るために大きな判型を持ち、大型イニシャルなど華やかな装飾を伴うものが多いのが特徴です。
内藤氏がクリスマスカードの図柄にひとめぼれし、のちにロンドンで購入した《聖務日課聖歌集零葉》も展示されています。
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「3章:聖務日課のための写本」展示風景より

左の《聖務日課聖歌集零葉》は、復活祭の聖務日課で歌われる聖歌を記した紙葉です。イニシャルの収集家でもあった英国の美術史家ジョン・ラスキンがかつて所有していたことが知られています。
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「3章:聖務日課のための写本」展示風景より

4章:ミサのための写本
ミサにもいろんなバリエーションがあり、それを説明するのが「ミサ典礼書」などの写本です。

下の作品はどちらも同じミサ典礼書由来の紙葉です。 もとの写本は、百年戦争中のフランス、ルーアンで当時同地を占領していたイングランド人のために制作されたといわれています。
右は「キリスト復活」に関する主要エピソー ドの挿絵 、左は聖母被昇天の祝日のミサのためのテキストの挿絵として、 天上で神の前にひざまずく聖母が表されています。
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「4章:ミサのための写本」展示風景より

ミサ典礼書には、司祭とその補佐役が唱え、あるいは歌うテキストのほか、聖歌隊が歌う聖歌が収められています。楽譜は複数の歌手が一緒に見て歌うため、見やすいように大きいのが特徴です。
⑧パヴィアのサン・サルヴァトーレ聖堂のミサ聖歌集の画家彩飾《ミサ聖歌集零葉》
パヴィアのサン・サルヴァトーレ聖堂のミサ聖歌集の画家彩飾《ミサ聖歌集零葉》イタリア、パヴィア 1480-85年頃 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

5章:聖職者たちが用いたその他の写本
5章では、聖務日課やミサ以外の用途で聖職者たちが用いた写本由来や、親写本の用途を特定するのが難しい作品群を紹介。聖務日課やミサなど典礼の際に聖歌隊が用いた聖歌集より切り取られたイニシャル5点は、近くでよく見るとアカンサスの葉やちょっと怪奇な人面装飾を見ることができます。
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「5章:聖職者たちが用いたその他の写本」展示風景より

6章から9章では、一般の人びとにも関わる写本が紹介されています。
6章:時祷書(じとうしょ)
「時祷書」は、キリスト教の一般信徒のための書物で、聖務日課書を簡略化した内容となっています。中世において最も多くの写本が制作されたのは時祷書で、そのため「中世のベストセラー」ともいわれます。
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「6章:時祷書」展示風景より

王侯貴族や高位聖職者の注文で制作された時祷書の写本の中には、有名画家が挿絵やページ余白の装飾を手掛けた豪華な作品もあります。 下の《時祷書零葉》は、生まれたばかりのキリストを聖母マリアとヨセフが礼拝しているようすが表されています。右は、15世紀後半フランスの代表的な写本画家のひとり、ジャン・コロンブの工房で制作されたと推測される作品で、幼子を優しいまなざしで見守る牡牛とロバの姿が描かれています。
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「6章:時祷書」展示風景より

⑨リュソンの画家彩飾《時祷書零葉》
リュソンの画家彩飾《時祷書零葉》フランス、パリ 1405-10年頃 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

また、15世紀末から16世紀には印刷技術も写本制作に取り入れられました。印刷された紙葉には、イニシャルや彩色、赤い罫線などが人の手で付け加えられ、より格が高いとみなされていた写本風に仕上げられました。
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「6章:時祷書」展示風景より

これは2018年、国立西洋美術館に追加で寄贈する作品を探しにロンドンを訪れた内藤氏が、自分のために購入した紙葉。今も個人で所蔵されているため、今回は鑑賞できる貴重な機会といえそうです。
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《『ギステルの時祷書』零葉》 南ネーデルラント、ブリュッヘ(?) 1300年頃 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤裕史氏蔵

7章:暦
7章では、写本に収められた「暦」が紹介されます。キリスト教における礼拝の内容は教会暦(キリストの生涯を一年の周期にあてはめて編成した暦)によって決まるので、詩編集や時祷書などでは、巻頭に暦が所収されているのが通例でした。

暦には、その月の性格を表すため、しばしば各月に典型的な農作業やレジャーの情景、月ごとの星座図などの挿絵が添えられています。たとえば、13世紀半ばの南ネーデルラントで制作されたこの写本では、7月の千草刈り、8月の麦刈りのようすが両面に描かれています。
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《詩編集零葉》南ネーデルラント、ブリュッヘ 1260年頃(?) 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

⑪《詩編集零葉》
《詩編集零葉》南ネーデルラント、ブリュッヘ 1260年頃(?) 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

8章:教会法令集および宣誓の書
「教会法令集」とは、カトリック教会がその組織運営や信徒たちの信仰、生活に関して定めた法文を所収した書物のことです。
右は、大学で用いられた教会法令集の写本に由来する紙葉。婚姻法にかかわる条文と注解が記されており、判決を下す司教の前にひざまずく男が原告。長年家を離れている間に妻に再婚されてしまった男の背後で、妻と新しい夫が抱擁しているという、状況設定がよくわかる挿絵が添えられています。
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「8章:教会法令集および宣誓の書」展示風景より

中世フランスで、領主などが慣習法の遵守を宣誓する儀式の際に用いられた、「宣誓の書」の写本零葉も紹介されています。
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「8章:教会法令集および宣誓の書」展示風景より

9章:世俗写本
内藤コレクションの大多数はキリスト教関連の写本零葉ですが、 世俗的、つまり非宗教的な内容をもつ作例も数点含まれています。本展では、13世紀フィレンツェの人文主義者の著作の写本零葉や、16世紀にスペインで発行された貴族の身分証明書などが展示されています。
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「9章:世俗写本」展示風景より、(手前)《ガブリエル・デ・ケーロの貴族身分証明書》スペイン、グラナダ 1540年 彩色、インク、金/獣皮紙 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

鮮やかな色彩、遊び心あふれる絵柄やデザイン、ときに素朴絵風な図柄や滑稽なイメージ、グロテスクなモティーフもあるなど、中世ヨーロッパの美意識がちりばめられた彩飾芸術の豊かな世界を体感できるとても贅沢な展覧会です。小さな紙面の中に拡がる、文字と絵が一体となった「優雅なる中世の小宇宙」を、この機会にじっくりと旅してみてください。

会場内は、一部の作品を除き写真撮影もOK。会期中、展示をより楽しむためのイベントとして、写本の奥深い世界に触れることのできる講演会や、トークコンサートも開催されます。詳細は国立西洋美術館ウェブサイトにてご確認ください。

【展覧会概要】
企画展「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」
会期:2024年6月11日(火)〜8月25日(日)  ※会期中に一部作品の展示替えあり
会場:国立西洋美術館 企画展示室
住所:東京都台東区上野公園7-7
開館時間:9:30~17:30(金・土曜日は20:00閉館)
※入館はいずれも閉館30分前まで
休館日:月曜日(7月15日(月・祝)、8月12日(月・振)・13日(火)は開館)、7月16日(火)
観覧料:一般 1,700円、大学生 1,300円、高校生 1,000円、中学生以下 無料
※心身障害者および付添者1名は無料
※大学生、高校生、無料観覧対象者は、入館時に学生証、年齢の確認できるもの、障害者手帳を要提示
※観覧当日にかぎり、本展観覧券で常設展も観覧可
国立西洋美術館ウェブサイト:https://www.nmwa.go.jp/

■同時期開催
小企画展「西洋版画を視る—リトグラフ:石版からひろがるイメージ」
会期:2024年6月11日(火)〜9月1日(日)
会場:新館 版画素描展示室