江戸から明治へと移り変わる激動の19世紀、 日本絵画の伝統を受け継ぎながら新たな表現へ挑戦した絵師たちが活躍しました。東京・六本木のサントリー美術館で開幕した「激動の時代 幕末明治の絵師たち」は、そんな幕末明治期に個性的な作品を描いた絵師や変革を遂げた画派の作品を紹介する展覧会です。会期は12月3日まで(会期中展示替えあり)。
この時代、天保の改革や黒船来航、流行り病、安政の大地震、倒幕運動といった混沌とした世相を物語るように、劇的で力強い描写、 迫真的な表現、そして怪奇的な画風などが生まれました。
また、本格的に流入する西洋美術を受容した洋風画法や伝統に新たな創意を加えた作品も描かれています。 このような幕末絵画の特徴は、明治時代初期頃まで見受けられました。
本展では幕末明治期に個性的な作品を描いた絵師や変革を遂げた画派の作品に着目し、社会情勢が大きく変化した幕末明治期の江戸・東京を中心に活動した異色の絵師たちの作品を通して、その魅力に迫ります。
展示は「幕末の江戸画壇」「幕末の洋風画」「幕末浮世絵の世界」「激動期の絵師」の4章構成。
第1章 幕末の江戸画壇
19世紀の江戸では、浮世絵をはじめ、狩野派や南蘋派、文人画など多彩な作品が生まれ、まさに百花繚乱の様相をみせていました。
1章では、様々な流派が活躍した19世紀の江戸において二大流派であった狩野派と谷文晁一門を中心に、多くの絵師たちが腕を競った幕末の江戸画壇の一端を紹介します。
18世紀後半、江戸画壇の主流だった狩野派にも変革が訪れます。狩野栄信は、中国絵画ややまと絵を摂取し新しい様式を確立させ、その子の狩野養信は、古絵巻・古器物の模写を通じてやまと絵を学び、中国絵画・西洋絵画の画法も取り入れ、近代日本画へ続く表現を生み出したといわれます。
展示風景より、左:《二十六夜待図》狩野了承 一幅 江戸時代・19世紀 展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)、右:《鷹狩図屛風》狩野養信 二曲一双 文政2~天保5年(1819~34)板橋区立美術館 展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
狩野雅信は、狩野養信の長男で、 木挽町狩野家の最後の当主でした。門下からは狩野芳崖、橋本雅邦ら近代日本画の礎を築いた絵師が生まれています。
沖一峨は、鍛治橋狩野家の探信守道に絵を学んだ江戸詰めの鳥取藩御用絵師。狩野派以外に江戸琳派、 江戸時代中期に長崎に来朝した中国人画家の沈南蘋の画風・南蘋派なども学び、《花鳥図》も中国絵画の影響が見受けられます。蝶や、蜂といった虫の描写が画面にアクセントを加えています。
左から、《花鳥図》沖一峨 双幅 江戸時代・19世紀 板橋区立美術館、《楼閣遊覧山水図》狩野雅信 三幅 文久元~明治13年(1861~80)いずれも展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
江戸時代後半の狩野派は、伝統を守るだけではなく、やまと絵や浮世絵、琳派、西洋画法なども取り入れ、門下からは従来の狩野派とは異なる独創的な作品を描く絵師も現れました。その一人が、四条派や土佐派などを学んだ後に狩野派へ入門したとされる狩野一信です。
増上寺に奉納された全100幅からなる《五百羅漢図》は、10年の歳月を費やして描かれた一信畢生の大作です。羅漢とは釈迦の弟子で、仏道修行の最高段階に達した者を指します。なかでも五百羅漢は、釈迦に直接学び、その教えを広め、伝えたといわれます。96幅目の完成後に一信は没し、残り4幅は弟子が描きました。伝統的な仏画の画題に洋風の陰影法を用いて、強烈な迫力をもつ極彩色の画面が創り出されています。
《五百羅漢図 第二十一・二十二・四十五・四十六・四十九・五十幅》狩野一信 百幅のうち六幅 嘉永7~文久3年(1854~63)大本山増上寺 通期展示
天皇家から東京帝室博物館表慶館に下賜された、一信の落款のある増上寺本《五百羅漢図》のミニチュア版と考えられる作品や、一信の《布袋唐子図》も展示されています。
左から、《五百羅漢図 第十一・十二幅》狩野一信 落款 二幅 江戸時代・19世紀 東京国立博物館 通期展示(※ただし頁替えあり)、《布袋唐子図》狩野一信 一幅 安政3~文久2年(1856~62)頃 板橋区立美術館 展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
右隻に一ノ谷合戦、左隻に屋島合戦を描いた《源平合戦図屛風》は、裏面には水墨で龍虎が配され、龍図の款記から一信36歳の作とわかります。鎧の小札、装束の模様、人物の髪の毛や髭、馬具の紐等、細部まで 丁寧に描かれ、物語の主役を前景・中景に配し、遠景の波は空気遠近法を用いて消えていくように描かれています。
左:《源平合戦図屛風》狩野一信 六曲一双 嘉永6年(1853)板橋区立美術館 通期展示
18世紀後半から19世紀の江戸画壇において、第一の大家とされたのが、谷文晁でした。
文晁は、中国絵画をはじめ、朝鮮絵画、西洋絵画、やまと絵、円山四条派など諸派を研究し、それらを取り合わせた独自の画風を生み出しました。また、松平定信のもとで、古画の模写や風景の写生を行い、特に実景に基づく 写生図は狩野派など同時代の画家にも影響を与えたといわれます。 諸派を学ぶ姿勢は、文晁の弟子へと受け継がれ、門下からは近代以降にも活躍する絵師たちが多く輩出されました。
左から、《柿本人麻呂像》谷文晁 一幅 文化3年(1806)サントリー美術館、《棲鸞園画帖のうち 山水図》谷文晁 一図 文政13年(1830)サントリー美術館 いずれも展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
第2章 幕末の洋風画
「洋風画」とは、明治時代以前に西洋画法に基づいて描かれた西洋風の絵画と一般的には定義され、明治時代以降の「洋画」とは区別されています。鎖国下では西洋絵画の情報は限られていましたが、江戸時代中期には蘭学が盛んになり、司馬江漢や亜欧堂田善によって西洋画法を取り入れた洋風画が描かれています。
洋風画は画派にはならなかったものの、江戸時代後半には舶載の銅版画や洋書が多く流入し、陰影法や遠近法を用いた様々な洋風画が制作されるようになります。第2章では、幕末の江戸で活躍した洋風画家の一人、安田雷洲を中心に幕末の洋風画を特集します。
葛飾北斎に学んだ雷洲は、当初は版本挿絵や錦絵を手掛け、その後、洋風画家・銅版画家として活躍し、東海道や江戸の名所・合戦・地震などの銅版画や、西洋銅版画に基づく独特の陰影をもった肉筆画を多く描きました。身分は御家人で、私塾を開いた蘭学者でもあり、銅版の世界地図や日本地図を制作し、製図法の著述も残しています。
雷洲はロシアやナポレオンへの関心が高かったことが知られています。当時のヨーロッパは、フランス革命、ナポレオン戦争といった戦乱の時代でした。
展示風景より、初期の《水辺村童図》、聖書の挿絵をもとに、聖母マリアが大石内蔵助、イエスは吉良上野介の生首と大胆に変換した《赤穂義士報讐図》、銅版画風に軍服姿のナポレオンを描いた《ナポレオン像》など雷洲の洋風肉筆画の作品の展示
縦横4×10センチの極小の銅版風景図である《東海道五十三駅》は、雷洲の銅版画の代表作とされています。長いシリーズが単調にならないように、季節や時間、天候を変化させ、視点の接近や俯瞰を交え、東海道の景色や生き生きとした人々の営みが精緻に描かれています。
江戸の銅版画は、限られた洋書の情報から試行錯誤を経て生み出されました。モノクロームを基調としながら、 木版画よりもはるかに精緻な表現や描写は、銅版画ならではの大きな魅力です。
展示風景より、安田雷洲《東海道中五十三駅》などの作品の展示
《江戸近郊勝景》安田雷洲 十二枚のうち二枚 江戸時代・19世紀 神戸市立博物館 通期展示(ただし頁替えあり)
甲斐や下総など江戸周辺の国々の景色を主題とした《江戸近国風景》は、雷洲が描いた銅版の風景図のなかでも、画面構成や細部描写が秀逸で評価の高いシリーズ。 小さな画面のなかに人々の営みが精緻に描かれ、伝統的な名所絵の枠組を受け継ぎつつ、近代風景画の息吹も感じられる作品です。
展示風景より、安田雷洲《江戸近国風景》などの作品の展示
雷洲ははじめ葛飾北斎に弟子入りし、文化年間には師と共作した版本挿絵などを複数制作しています。 北斎自身、洋風表現に高い関心をもっており、複数の洋風版画を描いています。《おしをくりはとうつうせんのづ》は、文化年間初めに北斎が制作した洋風版画のひとつで、「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の祖型ともいわれる作品です。
伊勢国長島藩主の増山雪斎に仕えた絵師の子として江戸に生まれた春木南溟は、西洋絵画に関心をもち、虫合戦図と呼ばれる一連の作品の作者と考えられています。
擬人化した虫たちが大砲などを用いて近代的な戦争をする様子を描いた《虫合戦図》は、一見ユーモラスに見えますが、ヨーロッパの戦争や軍事力、迫りつつある列強の脅威といった時代背景の流れの中で生まれた作品です。細部には西洋銅版画にならった線描や陰影法も見ることができます。
左から、《虫合戦図》春木南溟 一幅 嘉永4年(1851)頃 神戸市立博物館、《真人図》大久保一丘 一幅 江戸時代・19世紀 東京国立博物館 いずれも展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
左の泥絵とは、 胡粉を混ぜた不透明で安価な 絵具を用いた絵画。 江戸の泥絵は、大名屋敷 や江戸名所を描いたものが多く、油絵のような見た目で、遠近法を取り入れた構図が特徴です。 幕末から明治初期にかけて大量に制作され、土産物として販売されました。 一般の人々が西洋画法に出会う機会のひとつが、このような泥絵でした。
左から:《泥絵名所図》四十四枚のうち二枚 江戸時代・19世紀 日本民藝館 通期展示(場面替えあり)、《市街戦争図》松本保居 一枚 江戸時代・19世紀 郡山市立美術館 展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
第3章 幕末浮世絵の世界
第3章では、歌川国芳や歌川派の絵師たちに注目し、幕末の浮世絵の豊饒な世界を紹介します。
役者絵や美人画が中心であった浮世絵は、19世紀になると新たなジャンルが発展します。葛飾北斎や歌川広重の登場により名所絵や花鳥画が流行し、人気を博しました。幕末には武者絵で名をあげた歌川国芳が、風刺のきいた戯画や、斬新な構図などで新機軸を打ち出しています。北斎、広重、国芳といった巨匠からは多くの弟子が輩出され、特に歌川派は幕末浮世絵界の一大勢力となりました。
《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》歌川国芳 大判錦絵三枚続 嘉永4年(1851)頃 神奈川県立歴史博物館 10月11日(水)~11月6日(月)
また、ジャーナリスティックに同時代の世相を写し出す浮世絵は、黒船来航や横浜開港といった幕末の時事的な画題も取り上げています。特に短期間で寒村から国際港へと変貌していった横浜は、江戸の版元から大きな注目を集め、現在「横浜浮世絵」と呼ばれている、外国人や町の風景、馬車、船、洋館などを描いた作品が、歌川派の絵師を中心に多く制作されました。インターネットやテレビがなかった当時、浮世絵は横浜の「今」を伝えるメディアとして江戸の人々に大いにもてはやされたのです。
展示風景より
また幕末には、滑稽さや皮肉が込められた戯画、世相を風刺するさまざまな錦絵が流行しました。《じしん百万遍》は安政の大地震のあとに大量に作られた「鯰絵」のひとつ。「鯰絵」の多くは無許可出版で、作者名がわからないものがほとんどです。
展示風景より、左:《じしん百万遍》大判錦絵 安政2年(1855)町田市立国際版画美術館 展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
第4章 激動期の絵師
嘉永6年(1853)の黒船来航以降、めまぐるしく時代は変化していきます。第4章では、近代歴史画の祖・菊池容斎や、血みどろ絵で知られる月岡芳年、あらゆる画題に挑み画鬼と称された河鍋暁斎、光線画で一世を風靡した小林清親といった、江戸の地に生き、東京で活躍した絵師たちを取り上げ、江戸絵画の伝統を引き継ぎながら、新時代の感覚をあわせ持った絵師たちの作品を特集します。
菊池容斎は幕府の御家人である傍ら、18歳より狩野派を学び、その後、諸派や西洋絵画を修め、独自の画法を築きました。
容斎の名を近代以降広く知らしめたのが、神武天皇以降の明君や賢人らを挿図付きでまとめ、幕末から明治元年にかけて刊行された「前賢故実」です。 この本は近代画家たちが歴史画を制作する際のバイブルとして参照されました。
左より、《舞踊図》菊池容斎 一幅 文久年間(1861~64)頃 奈良県立美術館、《日蓮上人波題目之図》菊池容斎 一幅 天保年間(1830~44)頃 静岡県立美術館 いずれも展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
柴田是真は、蒔絵を学びながらもまず絵師として名を上げ、やがて蒔絵師としても精緻な技と機知に富んだデザインセンスで高い評価を得るようになります。明治時代になると、紙に色漆を用いて描く「漆絵」の技法を独自に発展させ、お伊勢参りの 名所のひとつ二見浦を描いた本作のように、絵と漆の両方を修めた是真ならではの独自の美を生み出ました。
展示風景より、《二見ヶ浦之図》柴田是真 一幅 明治時代・19世紀 展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
歌川国芳の門下からは多くの絵師が生まれました。その中で特筆すべきは月岡芳年と河鍋暁斎です。
月岡芳年は、12歳で国芳に入門。 混沌とした時代を象徴するような「血みどろ絵」 はじめ、武者絵、歴史画、時事的な絵、美人画、新聞挿絵など幅広いジャンルで活躍しました。
《和漢百物語》は日本や中国、天竺の怪異談を題材にしたシリーズ で、全26図からなる初期の代表作。 芳年が妖怪をテーマにした初めての揃物で、27歳の時に出版されました。
時代、身分、職業、年齢の異なる女性を当時の風俗で表した《風俗三十二相》は、さまざまな女性の表情を見事に捉え芳年晩年の美人画の代表作。
芳年の弟子のひとり水野年方の門下からは、鏑木清方など、その後の日本画を担う美人画の大家が生まれました。そうした意味でも幕末から明治にかけて、芳年の果たした役割はとても大きいといえます。
展示風景より、最後の血みどろ絵といわれる、月岡芳年《魁題百撰相》シリーズや、月岡芳年《風俗三十二相》などの作品の展示
近年人気を集め、展覧会も次々と開催されている河鍋暁斎は、幼い頃に浮世絵師の歌川国芳に入門したのち、狩野派に学び、さらに流派に捉われず様々な画法を習得しました。仏画から戯画まで、古いものから新しいものまで、ときに独特のユーモアを交えながら、圧倒的な画力によって幅広い画題を手掛けた暁斎は、当時から海外でも高い評価を得ていました。
暁斎が頻繁に描いた主題のひとつに鍾馗があります。鬼を退治する鍾馗は伝統的に端午の節句の幟や疫病除けの画題などとして用いられた図像ですが、暁斎はこの鍾馗と鬼の関係をユーモラスな戯画として描きました。 皺法、急流の描写などには狩野派らしい筆法が見出せ、暁斎の確かな画力が発揮された作品です。
左から、《鍾馗ニ鬼図》河鍋暁斎 双幅 明治4~22年(1871~89)板橋区立美術館、《神話図》小林永濯 一幅 江戸~明治時代・19世紀 板橋区立美術館 いずれも展示期間:10月11日(水)~11月6日(月)
慶応4年(1868) 7月17日、江戸は東京と改称されます。近代日本の中心地として急速に都市化が進んだ東京を舞台に、文明開化を象徴する洋風建築や汽車、人力車、西洋ファッションなどを描く「開化錦絵(開化絵)」が大量に出版されました。目の覚めるような濃厚な赤や紫の色づかいで描かれた開化錦絵は、文明開化の熱気と人々の暮らしの変遷を今に伝える貴重な史料でもあります。
展示風景より、明治初期の東京を描いた歌川芳虎らの開化錦絵の作品の展示
明治という新しい時代には、それまでに見られなかったような浮世絵が出現しました。小林清親の「光線画」と呼ばれる浮世絵です。
幕府御蔵役人の子として生まれた小林清親は、30歳で浮世絵師としてデビュー、同年に 版元・松木平吉から「光線画」と呼ばれる、東京名所図シリーズを刊行。自然光や人工的な光が織りなす陰影をとらえ、蒸気船や鉄道など新しい時代のモチーフが組み込んだ清親の作風は、浮世絵界に新機軸を打ち出しました。
小林清親門下の井上安治は、師が光線画から離れた後もその画風を継承し、26歳で夭折するまで光と影の織りなす抒情的な作品を数多く残しました。絵葉書や写真を思わせるサイズの光線画のシリーズ《東京真画名所図解》は、安治の代表作です。
展示風景より、《東京真画名所図解》など井上安治の作品の展示
かつては明治元年以前と以後の美術は分けて考えるのが主流でしたが、近年では、江戸から明治へのつながりを重視するようになり、幕末明治期の絵師たちの再評価が進んでいます。
劇的で迫力ある構図や洋風表現を取り入れた画風、伝統と創意が結びついた表現など、多彩な作品が会場には並んでいます。個性豊かな作品を通して、激動の時代を駆け抜けた絵師たちの、あふれるようなエネルギーを会場で感じ取ってみてください。
【開催概要】
激動の時代 幕末明治の絵師たち
会期:2023年10月11日~12月3日 ※会期中展示替えあり
会場:サントリー美術館
住所:東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア3階
電話番号:03-3479-8600
開館時間:10:00〜18:00(金土・11月2日・22日〜20:00) ※入館は閉館の30分前まで
休館日:火(11月28日は18:00まで開館)
料金:一般 1500円 / 大学・高校生 1000円 / 中学生以下無料
サントリー美術館ホームページ:https://www.suntory.co.jp/sma/