展覧会「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」が、東京ステーションギャラリーにて、11月28日(日)まで開催中です(その後、鳥取県立博物館に巡回)。

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小早川秋聲 [こばやかわ・しゅうせい、本名・盈麿(みつまろ)/1885~1974(明治18~昭和49)年] は、大正から昭和にかけて、京都を中心に活躍した日本画家です。鳥取のお寺の住職の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都の東本願寺の衆徒として僧籍に入りました。その後、画家になることを志し、文展や帝展を中心に出品と入選を重ね、画技を磨きます。

また、旅を好んだ秋聲は、日本各地を絵に描き、国外ではしばしば中国に渡って東洋美術を研究し、1922年から23年にかけてアジア、インド、エジプトを経てヨーロッパ十数ヵ国を巡って西洋美術を学び、1926年には北米大陸を横断し、日本美術の紹介にも努めました。
1931年以降は従軍画家として満州、中国へ何度も赴き、数多くの戦争画を描きますが、終戦の1年半前の作である《國之楯(くにのたて)》は代表作に挙げられる1点です。
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戦後は、大規模な展覧会への出品も減り、美術史上でも長らく忘れられた存在でしたが、1995年に『芸術新潮』が《國之楯》などを戦争画のひとつとして紹介。近年では2019年に小早川秋聲の関東初となる回顧展「小早川秋聲ー無限のひろがりと寂けさとー」が東京・京橋の加島美術で開催。NHKの『日曜美術館』でも紹介され、近年、再評価の機運が高まっています。
本展は、初期の歴史画から、初公開の戦争画、晩年の仏画まで、すべて小早川秋聲の作品百余点で構成。個人コレクションを中心に、新たに発見された戦争画など初公開の作品も多く展示され、戦争画にとどまらない秋聲の清新で叙情的な画業を幅広く紹介する初の大規模回顧展です。

従軍画家として、戦死した将校を描いた「國之楯」で名高い小早川秋聲。もちろん同作も修復された下絵とともにじっくり見られます。しかし見どころは他にもたくさんあります。

1 はじまり 京都での修業時代
秋聲は、幼少期から絵を好み、中学卒業後、京都の日本画家で歴史画を得意とした谷口香嶠に師事しました。谷口香嶠は、竹内栖鳳とならぶ、京都画壇の重鎮です。この頃の秋聲は、平家物語に題材を求めた《小督》や那須与一を描いた《誉之的(ほまれのまと)》のような、香嶠から学んだ時代考証の知識を活かして、歴史画を多く残しています。
明治末期~大正期に描いた《楠公父子》《譽之的》は師の教えに忠実な秋聲の技能がうかがえる作品です。
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左から「長江所見」1916年、「譽之的」明治末期~大正期、「楠公父子」明治末期~大正期
1909年、香嶠が教授を務める京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学するものの、すぐに退学して中国へ行き、約1年半、東洋美術を学びました。その後もたびたび中国を訪れ、《回廊》のような、中国の僧侶をモデルにした作品などを描いています。

2 旅する画家 異文化との出会い
本展でもっとも大きなボリュームを占めるのは、第2章「旅する画家─異文化との出会い」。ここでは旅を中心に、異文化との出会いから生まれた作品の数々が展示されています。

上・中・下の3巻からなる《玩具絵巻》。十二支の動物をかたどった玩具、季節ごとの行事や祭礼に関連した玩具などが素朴で軽妙な筆致で描かれています。秋聲は生涯を通して郷土玩具を主要なモチーフとして取り上げ、娘の眠る姿を描いた《未来》にも郷土玩具が描かれています。
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手前ガラスケース内「玩具絵巻」1916年

1915年、師・香嶠を亡くした秋聲は、次いで山元春挙に師事。
1918年から20年にかけては、山陰、南紀、北海道を旅して旅先の風物を描いた絵とエッセイを組み合わせた画文集を出版。
《裏日本所見畫譜》では山陰旅行の成果として、余部鉄橋、大山の噴火口、松江の城下町など、旅情あふれる情景を描きました。
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ガラスケース内「裏日本所見畫譜」1918年

北海道旅行の成果としては、秋聲は画文集『蝦夷地の旅から』を出版し、源義経とアイヌの娘の悲恋の伝説などを重ねた《追分物語》のような大作も、その旅から生まれました。《語られぬなやみ》は中国を主題とした作品。
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左から「追分物語」大正後期、「語られぬなやみ」1921年

1920年末、30代半ばになって、秋聲は憧れのヨーロッパへと向かいます。中国の大連で年を越したあと上海を出港し、インド、エジプトを経由して、ヨーロッパにたどりつき、北極圏のグリーンランドにまで足をのばしました。
17か国にものぼる、この遊学の旅は、小品ながらもたくさんの風景画を生みました。香港の夜景、インドのタージマハル、イタリアのベニスの運河、果てはグリーンランドの氷山と実に多くの場所を描いていますが、特にイタリアがお気に入りだったそうです。
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「伊太利ベスビオス山夕月 流浪楽人」ほか 1923~24年頃 

手前の《文殻を焼いて》は3幅のうち、水辺の鹿を描いた「孤鹿」と、樹木の中に2羽のフクロウを描いた「ささやき」のみが残ります。すくっと立つ鹿の姿と、深い森の中のフクロウの姿が印象的な作品。
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手前から「孤鹿・ささやき」(《文殻を焼いて》 のうち)1923年、「氷雨降る宵」大正後期、「達磨」1924年、「黙」1930年

第1次世界大戦が終了すると、アメリカの対日感情を好転させたいという思いが、日本の外務省や企業の間で高まり、1926年日本美術の紹介や文化交流を通した日米の関係改善のために、秋聲はアメリカへと派遣されました。現地では、日本画についての講演や展覧会も行い、グランドキャニオンを描いた作品も残しています。
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 左から「USAグランドキャニオン」昭和初期、 「米国グランドキャニオン暁月」昭和初期

第11回帝展に出品したのが《愷陣(がいじん)》(1930年)です。陸軍騎兵将校として馬に精通していた秋聲が、馬具や軍馬を改めて調べ直して制作にとりかかった力作です。戦地から故郷に戻った兵士は讃えられるのに、ともに戦火を潜り抜けた軍馬は埃まみれのままでいる、村人がそんな軍馬を花で飾って労をねぎらった、というエピソードをうたった「漢詩」に着想を得て描かれた作品です。
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牡丹で美しく装飾された馬が泣いているようにも見え、華やかな装いだからこそよけいに一抹の寂しさを感じさせます。ポスターで見たときには特に何も思わなかったのに、実際に作品を見たときには涙が出そうになりました。個人的には本展で一番好きな作品。
この作品以降、秋聲は、帝展の推薦・永久無鑑査となりました。日本画壇でゆるぎない評価を得たのです。

江戸時代、オランダから長崎へと旅立つ船を見送る女性たちを描いた《長崎へ航く》。オランダでのスケッチをもとに描いた作品と考えられていましたが、本展の京都会場の来場者から、アンリ・カシエによるポスターの構図に似ており、これをもとに描いた可能性があるという指摘がありました。秋聲はそのポスターをヨーロッパのどこかで目にしたのかもしれません。
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右から「長崎へ航く」1931年、「五月晴」1931年 

3 従軍画家として 《國之楯》へと至る道
時代は徐々に戦争の色が濃厚となっていきました。満州事変(1931年)や、盧溝橋事件(1937年)をきっかけに日本は戦争へと突き進み、秋聲は主に従軍画家として、満州、中国へと頻繁に赴くようになり、《國之楯》に代表される、多くの戦争画を描きました。
国定教科書にも掲載された《御旗(みはた)》は「日本精神宣揚の為」という勇ましい動機で描かれた作品ですが、独特のリアリティと静けさ、深さ、叙情性が感じられます。
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左から「護国」1934年、「御旗」1934年

秋聲は、兵士や銃後の家族の眠る姿をしばしば描いています。1938年の《虫の音》は、今回新しく発見された作品で、軍服姿で疲れ果てて仮眠を取る兵士のリアルな姿を描いています。秋聲は、最前線に踏み込んだ丹念な取材を通して、戦争を描きながら、そこに生きている人間の等身大の姿を描こうとしました。
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左から「絶目盡吾郷(成吉斯汗)」1932年、「虫の音」1938年

終戦の1年半前の作である《國之楯(くにのたて)》は、陸軍省から受け取りを拒否されます。受取を拒まれた理由は定かではありませんが、後に秋聲は背景を黒く塗りつぶしました。絵の裏にはチョークで「返却」と記されています。
《國之楯》をどう見るかは鑑賞者次第ですが、作品を実際に見ると英霊をたたえるというよりは、静かに戦争の愚かさ、悲しみを訴える絵に思えます。秋聲は、兵士の死に虚しさや疑問を感じていたのではないか、だからこぞ戦争画であるにもかかわらず、多くの人の心をとらえるのではないかという気がしてきます。
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左から「國之楯」1944年、1968年改作、「國之楯」(下絵)1944年

4 戦後を生きる 静寂の日々
戦争画を多く描いた秋聲は、戦後、罪を問われる覚悟の日々を送ったといいます。日展の審査員選考委員もつとめましたが、戦地での無理がたたり体調を崩したこともあり、大規模な展覧会への出品はほとんどしなくなり、旅をすることもなくなりました。この頃は、仏画や、干支をテーマにした小品などを多く描いています。1964年に日本で開催された初めてのオリンピック。秋聲も、この世界的な祭典に心動かされたのか、聖火ランナーの姿を描きました。
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左から「聖火は走る」1964年、「聖母子像」1945~74年

秋聲の作品には、表装にとても凝ったものがあり、今回そうした作品も出品されています。
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「吉祥 初平」1954年、「猿猴三訓」1945~74年

「天下和順(てんげわじゅん)」とは天下が治まり平和である状態のことを指しますが、仏典「大無量寿経」にあるこの言葉を秋聲は特に好みました。秋聲の《天下和順》には、酒甕の周囲に人々が集まり列をなして踊り興じる様子が画面いっぱいに描かれています。
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左から「天下和順」1956年、「延寿」1947年

1974年、秋聲は88歳で京都で亡くなりました。
小早川家所縁の鳥取県にある日南町美術館を中心に今後もさらなる研究が期待されますが、今回の出展作品は個人蔵のものが多いため、今後見ることができる機会は当面あまりないかもしれません。
激動の時代のなかで旅をし、描き続け、多様な作品を残した知られざる画家の魅力的な作品の数々を、この機会にぜひ多くの人に見てほしいと思います。

「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」展覧会公式サイト
会期 2021年10月09日(土)〜2021年11月28日(日)
会場 東京ステーションギャラリー
住所 東京都千代田区丸の内1-9-1 
時間 10:00~18:00(金曜日~20:00)*入館は閉館30分前まで
休館日 月曜日 ※ただし、11月22日(月)は開館
入館料 一般1,100円  高校・大学生900円  中学生以下無料
*障がい者手帳等持参の方は 100 円引き(介添者 1 名は無料)
*チケットは原則日時指定の事前購入制
*新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催内容が変更になる場合あり