現在、日本美術全集全20巻が小学館から刊行されています。20年ぶりの美術全集だそうで、小学館のHPによると、この企画は日本美術の広報担当者を目指す、明治学院大学教授の山下裕二先生の案に基づいて発足したそうです。

やはり美術の本は写真がないと面白くありませんが、どれも前半にその時代の主な作品を美しいカラー写真とともに取り上げて、次にその時代の美術にまつわるさまざまなテーマによる解説があり、最後に図版解説、年表等という流れになっています。

このテーマ別解説が面白くて、これまでも「ほー」と感心したり、驚いたりして勉強になったことが多かったのですが、今回第12 巻の「狩野派と遊楽図」で、狩野博幸氏が狩野長信のことを取り上げており、とても面白かったのでエッセンスをご紹介します。
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狩野永徳には狩野宗秀(そうしゅう)と長信(1577 - 1654)の二人の弟がいました。
永徳急逝後、狩野派は混乱の時期を迎えます。
狩野宗家を継いだ永徳の長男光信は、三井寺の勧学院客殿(この絵は素晴らしいです!)や,京都高台寺霊屋,京都法然院,滋賀の都久夫須麻神社などの障壁画を制作しますが、44歳で急死します。このとき光信の嫡男貞信は12歳。

ここで狩野派は生き残りをかけて「3面作戦」にでます(現在岡田美術館館長の小林忠氏の説だそうです)。
3面とは、徳川、豊臣、朝廷のこと。
関ヶ原の戦いも終わり、徳川家は既に征夷大将軍に任ぜられ、その絵事御用を務める光信が急死した後、その子貞信を補佐したのが長信でした。
朝廷には永徳の次男の孝信。
そして豊臣には永徳門人で義理の息子でもあった山楽と内膳を配します。

孝信は1618年に48歳で亡くなりますが、孝信の家督は次男の尚信が継ぎます。このとき長男守信(探幽)17歳、
尚信12歳。安信5歳。

孝信の3人の子はその後、皆江戸に下って幕府御用絵師となりますが、可哀想なのは京都に残された山楽です。1615年、大阪夏の陣で豊臣家が滅ぶと、山楽も豊臣家の残党として徳川方に追われ、石清水八幡宮の松花堂昭乗のとりなしもあって家康に許され、京都に帰ることができました。山楽はいわば捨て石に使われたのです。

このような恐ろしい作戦を計画したのは誰か?
東京国立博物館の春の恒例イベント『博物館でお花見を』の時期に毎年国宝室に絵が展示されるあの人だと、狩野博幸氏は述べています。

もちろん真偽はわかりませんが、とても面白く拝読しました。